名張毒ぶどう酒事件再審請求が棄却

http://www.asahi.com/national/update/1226/TKY200612260218.html

名張毒ブドウ酒事件」の異議審で26日に名古屋高裁が出した再審請求棄却決定の理由の要旨は次の通り。(呼称一部略)

 61年3月28日、生活改善グループ「三奈の会」の年次総会の懇親会が公民館で開催された際、何者かがブドウ酒に毒物を混入した。

 自白を除く新旧証拠を検討すると、毒物が混入されたのは公民館囲炉裏の間付近であると認められるが、奥西勝死刑囚以外の者にはブドウ酒に農薬を混入する機会がなく実行は不可能だった▽奥西はニッカリンTを入手・保管し、ブドウ酒を公民館に自ら運び込んでから女性会員らが集まってくるまで、1人でいた間に犯行を行うことが実際に可能だった――という事実が認められる。

 そのほかにも、奥西には妻と愛人を殺害する動機となり得る状況があったこと、犯行を自白する前には明らかに虚偽の供述で亡くなった自分の妻を犯人に仕立て上げようとしていることが認められる。総合すると、奥西が犯行を行ったことは明らかで、状況証拠によって犯人と認定した確定判決の判断は正当だ。

 原決定(名古屋高裁の再審開始決定)は、薬物に関する新証拠(鑑定など)に基づき、ニッカリンTであれば当然検出されるはずの物質(トリエチルピロホスフェート)が飲み残しのブドウ酒から検出されておらず、犯行に使用された農薬はニッカリンTではない可能性が高いとする。

 だが、新証拠の鑑定内容を詳細に検討すると、混入されたのがニッカリンTであってもトリエチルピロホスフェートが検出されないこともあり得ると判断され、使用された農薬がニッカリンTでないとはいえない。

 毒物は有機燐(りん)テップ製剤であることが判明しており、有機燐テップ製剤であるニッカリンTが使用された可能性は十分に存する。

 原決定は、新証拠(鑑定など)に基づき、証拠物の四つ足替栓は本件ブドウ酒瓶のものではない可能性があるというが、本件の瓶に装着されていたものに間違いない。

 また、原決定は新証拠(開栓実験など)に基づき、公民館でブドウ酒が開栓される前に会長宅で封緘(ふうかん)紙を破らない偽装的な開栓が行われ、そこで毒物が混入された可能性があるという。だが証拠物の状況からは公民館での開栓が間違いなく最初の開栓で、偽装的な開栓があったとは認められない。

 さらに、原決定は奥西の自白の信用性を否定するが、自白は事件直後の任意取り調べの過程で行われたもので、自白を始めた当初から詳細かつ具体性に富む。勝手に創作したような内容とは到底思われず、証拠物や客観的事実に裏打ちされて信用性が高い。原決定は、自白には変遷があり迫真性に欠けるというが、判断は一面的である。

朝日新聞より。
この名張事件の問題点、さらには裁判員制度を見据えた問題点を指摘する社説が多く見られます。
それらに社説については、
http://d.hatena.ne.jp/grafvonzeppelin/20061227
を。

まさかとは思っていましたが・・・
再審に関する「逆流」の流れを決定付けるものなのでしょうか。

再審を認めるかどうかについては、かつては「孤立評価説」という考えが支配的でした。つまり、再審を請求する際に提出された「新証拠」が、それ自体で再審請求人の「無罪」を証明することが要求されていたのです。
しかし、これでは有罪とされた被告人のみが無罪を求めて再審を請求することを認めた刑事訴訟法の精神との矛盾が出てしまいます。なぜなら、「誤って有罪とされた者」を救済することだけが刑事訴訟法の精神であるはずなのに、「孤立評価説」ではほとんど救済されないからです。再審制度が「開かずの門」といわれたゆえんです。
このような問題点をふまえて、再審理論は展開されます。最高裁の白鳥・財田川決定などを前提に、確定された事実認定の基礎となった証拠を分析し、さらに再審を請求する際に提出された「新証拠」をあわせて、確定された事実認定が「揺らぐかどうか」を再審請求のテーマとする「証拠構造論」という理論が有力に主張されています。
つまり、再審請求における最大の論点は、「請求人は本当に無罪だったのか」というものではなく、「確定された事実認定は正当なものだったのか」ということになるのです。請求人は、確定された事実認定が「揺らぐ」ことを「新証拠」で示せばよい、とされたのです。
このような考えは、「誤って有罪とされたものの救済」という再審制度の理念を具体化したものといえるでしょう。ここでのポイントの一つは、「請求人は自分の無罪を積極的に証明する必要はない」ということだろうと思います。
しかし、判例の流れを見ると、この精神が十分に実現されているとは言いがたいところがあります。
名張事件の(今回棄却された)再審開始決定が出されたのは、弁護団の大きな努力が実り、「事実認定は揺らいだ」ということ以上に、「請求人は無罪だ」ということを証明するにまで至ったという評価も可能なくらい重大な新証拠が出されたことが理由だと思います。なにしろ、「自白」にあった毒物と、事件で用いられた毒物は違うというのですから。これは「請求人は無罪だ」ということを証明するに等しいものだったといえるでしょう。請求人側は、「事実認定が揺らいだ」というと同時に「請求人は無罪だ」ということを主張したことになるのです。
しかし、今回の棄却決定は、この点について、「まだ自白にいう毒物である可能性がある。」というのです。このように「・・・の可能性がある」としながら、被告人の有罪を確認する方法を「可能性論」といいますが、「疑わしいときは被告人の利益に」という刑事裁判の鉄則との関係で問題のある方法です。それ以上に、それでは今回の棄却決定は、再審請求人に「完全に請求人は無罪である」ことを示すような証拠を出せと要求していると思われる点に問題を感じます。先ほど言ったように「孤立評価説」は大昔に克服された見解でした。それは現在の法の精神に合致しないからでした。しかし、今回の棄却決定は、裁判官に「・・・の可能性もある」ということを思わせないような完全明白な無罪の証拠をだせと要求しているに等しいものではないでしょうか。そして、「・・・可能性がある」という裁判官の完全な主観的な思いで、再審開始決定が認められたり、認められなかったりするなかで、請求人は何をすればいいのでしょうか?まったく見えない状態であるといわざるを得ないでしょう。これが「誤って無罪とされた者を救済する制度」のありかたなのでしょうか?
再審の理念とは何だったのか、刑事裁判とは何なのか。改めて考えさせられます。