任意調べ中に暴行、巡査部長を書類送検…千葉県警

http://www.yomiuri.co.jp/national/news/20061030ic22.htm

千葉県警捜査2課の男性巡査部長(44)が、任意で事情を聞いていた男性に暴行した問題で、県警は30日、巡査部長を特別公務員暴行陵虐致傷の疑いで千葉地検書類送検し、減給10分の1(6か月)の懲戒処分にした。
 巡査部長は同日付で依願退職した。
 県警監察官室によると、巡査部長は9月1日、県警佐倉署の取調室で、事情聴取していた同県佐倉市の30歳代の男性が座っていたイスをけったうえで頭を小突き、頭に1週間のけがを負わせた疑い。
 調べに対し、巡査部長は「あいまいな説明を繰り返す男性を諭そうとしてやった」と供述しているという。
 また、県警は事情聴取に同席していた県警環境犯罪課の男性警部補(45)を戒告、巡査部長の上司の警部(51)ら2人を本部長注意などの処分にした。
 県警の岡田英男・首席監察官は「適当、妥当な取り調べの在り方を指示、教養したい」とコメントを出した。

 読売新聞より。 http://d.hatena.ne.jp/grafvonzeppelin/20061030も参照。
先日も取り調べ問題には言及しましたが…
 前回も指摘したように、現在の取調をめぐる制度のあり方は、構造的な問題を抱えており、今回の事件も、この巡査部長の人格が大きな原因であったとはいえないと思います。
 もちろん、「諭そうとして」頭を小突くことは、この巡査部長に問題があったといえるでしょう。しかし、このように自白を引き出そうとして行動がエスカレートする様子は、まさに代用監獄によって被疑者の身体を手中に収め、刑訴法198条1項但書を「取調受忍義務」であると解釈することによる実務の結果がもたらすものであろうと思います。というのも、このような実務は、取調室内におけるすべての事象の善悪は警察官が判断することになり、そしてその善悪の大部分は自白獲得という「結果」によって正当化されることになるからです。
 その結果、「諭そうとして」一週間の怪我を押させるという、取調官の主観面と事実の客観面の食い違いが出てくるということとなったといえるのではないでしょうか。
 このような構図は、被疑者と警察、お互いにとって不幸であるといえます。取調べにおいて警察官が善悪のすべてを判断する者とされるのは、このような構造的な問題を抱えるだけでなく、その警察官にとっても大きな負担と責任を課すことになるといえるからです。
 かつて、少年法が改正されたとき、いわゆる職権主義構造をとる少年法が批判され、非行事実の認定を含めたさまざまな役割が裁判官に課されていることが批判されました。裁判官1人にあまりに多くの役割が求められている。このような構図が、「適正な事実認定」をゆがめているのだと。「多角的な視点からの事実認定」が必要なのだと。そうだとするならば、この取調における警察官についても同じ事が妥当するはずです。
 取調べにおいて何が「適正」なのかは、これも多角的視点から検証されるべきはずです。そのためには、やはり弁護士の関与や録音・録画といった「視点」の確保は必須だと思うのですが…

サイバー犯罪に「おとり捜査」=児童ポルノ、偽ブランド、ID対象−警察庁

http://www.jiji.co.jp/jc/c?g=soc_30&k=2006102600230

警察庁は26日、インターネット上で違法に販売されている児童ポルノ画像や偽ブランド品などについて、警察官が客を装って買い取り、検挙に結び付けるおとり捜査の手法を積極的に推進する方針を決めた。検挙した際は捜査の経緯も公表し、同種犯罪の抑止を目指す。27日の全国会議で各都道府県警に指示する。
 対象となるのは、DVDなどで販売されるわいせつ画像や児童ポルノ海賊版コンピューターソフト、偽ブランド品、ネットオークションのIDやパスワードなど。
 警察官が身分を隠してネット上で購入。違法かどうかを確認し、家宅捜索や検挙につなげる。

時事通信より。
 またもや「任意捜査の限界」として論じられる問題が出てきそうですね。
 「おとり捜査」については、機会があれば犯罪を行おうという意思を持っていた者に対する「機会提供型」と、犯罪を行う意思はなかった者に対する「犯意誘発型」とを分け、後者は違法であるとする二分説が有力に主張されてきました。
 この点、最高裁平成16年7月12日決定は、
 a「直接の被害者がいない薬物犯罪等の捜査において」
 b「通常の捜査方法のみでは当該犯罪の摘発が困難である場合に」
 c「機会があれば犯罪を行う意思があると疑われる者を対象に」
おとり捜査を行うことは、刑訴法197条の任意捜査として許されると判示しています。
 今回の警察庁の方針も、この最高裁判例に則って進められるべきということになるでしょう。
 最高裁判例を分析すれば、薬物犯罪のように隠密・巧妙・組織性を備え、かつ特定の個人の権利・利益を直接侵害しない一定の犯罪に関する捜査で、「通常の捜査のみでは当該犯罪の摘発が困難」、つまりおとり捜査が必要不可欠であること、そして機会提供型のおとり捜査であることが合法なおとり捜査というための条件となります。
 このような最高裁判例の視点から見ると、今回の警察庁の方針をみてみると、対象となる「サイバー犯罪」も薬物犯罪と類似するものは少なくなくないこと、インターネット上で販売をしているのであるから、犯罪の意思を持っていると評価できることも多く「機会提供型」といえる場合が多いこと、がいえるでしょう。
 しかし、サイバー犯罪だからといって常に「通常の捜査のみでは当該犯罪の摘発が困難」という要件を満たすわけではありません。この要件を個別具体的に、かつ厳格に判断する必要があるでしょう。その意味では、捜査の経緯の公表は重要でしょう。
 もっとも、警察庁の方針をよく見てみると、「検挙した際は」捜査の経緯を公表するとし、また「違法かどうかを確認し」、家宅捜索や検挙につなげるという点には注意を払うべきであろうと思われます。「違法かどうかを確認し」捜査や検挙につなげるという手法は、しらみつぶしにネット上のオークションなどがチェックすることを意味しますし、またここでは判例が示した「通常の捜査のみでは当該犯罪の摘発が困難」という基準の考慮がなされているとはいいがたいように思われます。また、「検挙した際」ということは、それ以外の場合は公表されないということになり、透明性の担保としては不適当ではないかと思われます。
 この方針も、やはり「必要性」が先走りしたものである感はぬぐえません。「相当性」という絞りをかける意味や内容ををもう一度再検討すべきなのかもしれません。

大麻所持で東京・大田区職員を逮捕…栽培の疑いも

http://www.yomiuri.co.jp/national/news/20061022i203.htm

神奈川県警茅ヶ崎署は22日、東京都大田区総務課職員、宮崎義一容疑者(52)(同県茅ヶ崎市東海岸北)を大麻取締法違反(所持)の現行犯で逮捕した。

 調べによると、宮崎容疑者は同日午前、自宅にビニール袋入りの乾燥大麻(約4グラム)を所持していた。自宅からは吸引器具のほか、大麻栽培に使ったとみられる鉢も見つかり、同署は栽培していた疑いがあるとみて追及する。宮崎容疑者は「自分で使うためだった」と供述している。

(2006年10月22日19時44分 読売新聞)

 読売新聞より。
 近年、公務員の不祥事や税金の浪費等が取りだたされるのをニュースでよく見ます。これらの事件に対する批判は、それぞれにお任せするとして、今日は、ちょっと話は飛びますが、刑法理論の立場から見てみようと思います。

 最近の刑罰論(刑罰の本質や正当化根拠などに関する議論)で多く論じられているものとして、「積極的一般予防論」というものがあります。
 この考えは、刑罰の存在によって一般国民が犯罪に走るのを防ごうという一般予防が消極的一般予防といわれるのに対し、刑罰を科すことによってその対象となった行為は行ってはならないという「規範」を確証しようというものといわれます(もっとも、積極的一般予防論は、社会の規範のアイデンティティを確認することも目的とするものであルという見解も有力です。私もこの見解の方が妥当だろうと思います。しかし、一般的に広まっている認識をここでは引用します)。
 現代社会の状況、特に慣習や習俗といった社会規範の低下によって犯罪予防が困難になってきた、という背景も存在するように思われます。

 このような「積極的一般予防論」については様々な批判がなされてきました。この理論によれば、これまで刑法が任務としてこなかった部分も刑法の任務とされてしまいます。今まで、社会規範が防止してきたかもしれない犯罪につながりかねない行為をも刑法の対象とされるわけです。その意味で、刑法は今まで以上に「前傾化」し、また今まで以上に「厳罰化」されることにつながるのではないかといわれてきました。

 このように、刑法の前傾化・重罰化につながるという「負の側面」が批判されてきた積極的一般予防論ですが、次のようにも言えるのではないでしょうか。刑罰の目的が「規範」の確証を目的とする以上、それは「規範」の確証にふさわしいものでなければならないということはいうまでもありません。それは、刑罰の内容だけでなく、その刑罰を科す手続、刑罰を科す者も、「規範」の確証にふさわしいものでなければならないはずです。
 それでは、例えば、違法な捜査によって獲得された有罪に科された刑罰、違法な行為を乱発している国家によって科された刑罰というものは、「規範」の確証にふさわしいものなのでしょうか?
 「規範」を確証することを目的とする以上、その手続や執行者は「規範」にのっとっていなければならないということは間違いないでしょう。その「規範」とは憲法31条以下に示されている刑事手続に関する憲法的権利であることはいうまでもありません。形式的に見て憲法の要求に反さないから…という形で様々な捜査が現在容認されています。真実発見という結果が、多少の違法行為をも正当化するという風に私には見えますが、このような手続が「規範の確証」にふさわしいのかについては、相当に疑問です。
 刑法の前傾化や重罰化という面では、私も「積極的一般予防論」には疑問なしとはしませんが、このように刑事手続への影響も考慮していく必要もあるのではないでしょうか。
 

「私服警官の職質でPTSD」 中3が佐賀県提訴

http://www.nishinippon.co.jp/nnp/national/20061014/20061014_006.shtml

 人けのない夜道で警察手帳を提示せずに呼び止めるなどの違法な職務質問を受けたため、追跡してきた私服警察官を変質者と勘違いし、PTSD(心的外傷後ストレス障害)になったとして、佐賀県伊万里市内の中学3年の女子生徒(15)とその両親が同県に約560万円の損害賠償を求める訴えを佐賀地裁武雄支部に起こしていたことが13日、分かった。

 訴状によると、生徒は1年だった2004年11月20日午後7時前、公民館の書道教室から自転車で帰宅する途中、真っ暗な道で自家用車に乗った県警巡査部長から「駐在所のお巡りさん」と名乗られて、呼び止められた。驚いて逃げたが、大声を上げて車で追いかけてきたため、「殺される」と思い、公民館に戻り書道の講師に助けを求めた。その後、生徒は暗い場所や人と会うのを怖がるようになり、PTSDと診断され、現在も通院を続けているほか、不登校になった、としている。

 巡査部長はこの日、非番だったが、自転車の窃盗事件を調べていたという。生徒の自転車は盗難車ではなかった。県側は「正当な職務質問だった」として、請求の棄却を求める答弁書を提出している。

西日本新聞より。
 「正当な職務質問だった」という主張の根拠は何なのでしょうか。その点は明らかではありませんが、「自転車窃盗について調べる行為」であったからというのでは理由にならないと思います。
 職務質問は、警察官職務執行法2条1項で認められた行為です。そこでは、
 「警察官は、異常な挙動その他周囲の事情から合理的に判断して何らかの犯罪を犯し、若しくは犯そうとしていると疑うに足りる相当な理由のある者又は既に行われた犯罪について、若しくは犯罪が行われようとしていることについて、知つていると認められる者を停止させて質問することができる」と規定されています。
 おそらくこの条文を非常に形式的に解釈して、合法であったと主張されるのでしょうが、この点、警職法1条1項は、警察官の職務の目的を「個人の生命、身体及び財産の保護、犯罪の予防…」と規定し、さらに警職法1条2項は、これらの「目的のため必要な最小の限度において」職務質問を行うべき、と規定している点が無視されてはならないでしょう。
 これらの条文からすれば、例えば職務質問の際、「自転者窃盗について調べる」という目的や行為の正当性だけでなく、そのプロセスの正当性も問われなければならないというべきでしょう。
 この点、この事件では、訴状によれば、警察官だと名乗るだけで警察手帳を見せていない、真っ暗な道で、しかも自動車に乗って声をかけている、さらに大声で車で追いかけているなど、およそ「必要最小限」とはいえないプロセスを経ていることは明らかです。
 さらに、非番であったことなどを加味すると、明らかな証拠や緊急性などもないのに、漠然と職務質問をしたのであれば、警職法2条1項の「警察官」に該当するかも疑問です。
 学説上でも、真の任意の職務質問はあるのかという点は指摘されています。それに加え、このような(道の状況や女子中学生であったことなどの)状況やプロセスを経て、それでも「正当」であったというのであれば、警職法1条2項のいう「必要最小限度」性とは何を意味するのか、逆に聞いてみたい気がします。

窃盗容疑、岡山県警が18歳少年を誤認逮捕


http://www.yomiuri.co.jp/national/news/20061008i314.htm?from=main3

岡山県警山東署が、先月25日に窃盗容疑で逮捕した岡山市内の飲食店員の少年(18)について、今月6日、誤認逮捕だったとして釈放していたことが8日、わかった。
 県警は「誠に遺憾。再発防止の指導を徹底する」としている。
 県警によると、同市内で3月下旬〜4月中旬、2人組によるひったくり事件が3件あり、7月に同署が市内の中学3年の男子生徒(14)から任意で事情聴取したところ、「店員と一緒にやった」と話したため、少年を窃盗容疑で逮捕した。
 しかし、少年は容疑を否認し、その後、生徒が同級生の男子生徒(15)の関与を打ち明け、「同級生をかばうため、店員の名前を出した」と話したという。
 しかし、少年は別のひったくり事件への関与を認めており、同署が事情を聞いている。


日本における逮捕実務の問題、取調べ実務の問題を如実に表しているものであるといえるのではないのでしょうか。つまり、逮捕に対する司法のチェックがやはり不十分であること、「任意で事情聴取」が真の意味での「任意」ではないこと、そして少年に対する取調に対する配慮不足がうかがわれることなどです。
 そもそも、「逮捕」というのは、国際的な基準に照らせば、逮捕後の勾留という身体拘束を裁判官が判断するために、裁判官の面前に被疑者を連れて行く行為のことです。どこかに被疑者を閉じこめる行為ではありません。しかし、日本の現実は、「逮捕」は結局被疑者を警察署に閉じこめる行為であり、その状態を利用して延々と取調べを行うということが続けられています。これが「代用監獄問題」といわれる問題です。そもそも対立する者の手元で身体が拘束されることは不公正といわざるを得ない状況です。しかし、それ以上に、第三者の目が行き届かない警察という組織の中で生活を監視・統制され、その上で自白を強制されるというシステムは、警察官が一生懸命になればなるほど被疑者に心理的圧迫を与え、不当な自白を強制することになるという結論を導くことになってしまっていることは、今まで以上に強調されるべきでしょう。
 この事件は、この少年や取調べを行った警察官個人のみに原因があるというより、このような自白強制システムに原因があるというべきではないでしょうか。逮捕の謝った理解、代用監獄、取調べの不透明性。これらの問題が解決されない限り、日本の刑事司法の将来は暗いと言わざるを得ないように思います。
「再発防止の指導を徹底する」では解決できない、構造的な問題と言うべきでしょう。

共謀罪 「必要」の論拠は


http://www.mainichi-msn.co.jp/eye/shasetsu/news/20061006k0000m070159000c.html

 政府は共謀罪の導入を目指し、組織犯罪処罰法改正案を臨時国会の最重要法案の一つにしているが、「国際組織犯罪防止条約の批准には共謀罪が必要」とする政府の説明の根拠が、揺らぎ始めた。日本弁護士連合会が国連の会議録や国連作成の立法ガイドを精査した上で「共謀罪は不要」とする意見書を法務省などに提出。民主党も同様に、徹底追及する構えを見せているからだ。

 条約の批准には、犯罪の未遂より前の段階で加罰できるように共謀罪か結社罪を導入しなければならない、結社罪は憲法の結社の自由に触れるため共謀罪を創設する、創設して条約を批准しないと、テロ対策や国際犯罪対策で各国が連携を深める中、世界の孤児になる……といった説明を、政府は繰り返してきた。

 しかし、日弁連の意見書などによれば、条約起草のための国連の会議で政府は「共謀罪も結社罪も、日本の法原則になじまない」と強調、多くの国に受け入れられる条約にすべきだ、と主張した。その結果、日本など英米法や大陸法とは別の法体系を採る国では両罪とも導入が難しいことが理解され、条約には「各国が国内法の原則に従って実施すればよい」と明文化された。国連が各国の国内法起草者向けに作成した立法ガイドにも「各国の国内法の基本原則と合致する方法で行う」「新しい法が国内の法的な伝統、原則、基本法と合致することを確保しなければならない」といった日本の主張をくんだ項目が盛り込まれた。

 条約が一方で求める結社罪も、特定の犯罪にかかわることを認識して犯罪組織に加わる参加罪と解釈するのが妥当であり、日本では共謀共同正犯やほう助犯の理論によって幅広く共犯を処罰できること、58の主要犯罪について凶器準備集合罪や殺人予備罪などで未遂より前の段階で処罰できること−−などを総合し、現行法のまま条約を批准できるので共謀罪は不必要、と日弁連は結論付けている。

 意見書に照らすと、政府は国連で受け入れられた自らの主張にも反し、必要でもない共謀罪の創設を図ってきたことになる。共謀罪には「市民の人権弾圧に悪用される」といった根強い批判があるほか、対象犯罪が600を超すだけに法体系を一変させるとの懸念も広がっている。それらに抗し、確固たる根拠もないまま政府が導入を目指していたとするならば、国民への重大な背信行為と言わなくてはならない。政府は「条約の一部を留保することはできない」とも説明していたが、この間、共謀罪導入に熱心だった米国が、肝心の国内法整備の条文に留保をつけて条約を批准したことも判明している。国連が条約批准の適否を審査するとしていた政府の説明も、事実に反すると批判されている。国を挙げての論争の意味も、問い直されなくてはならない。

 共謀罪がなぜ、必要か。政府はなぜ、変節したのか。切実な疑問を突きつけられた以上、政府は国会審議以前に、国民が納得できる説明をしなければならない。


一時は、ニュース等でも盛んに取り上げられていた共謀罪ですが、情報としてはかなり限られていたように思います。その点で、この日弁連の意見書は非常に重要な情報を提供しているといえるでしょう。
 今回の共謀罪創設の大きな根拠の一つは、この社説でも取り上げられているように、世界との協調性でした。世界の潮流は、共謀罪創設へと向かっているかのような政府側の説明だったように思います。ところが、そのような潮流が存在するかどうかも怪しく、また日本政府自身もこの潮流に反対していたという事実は、これまでの議論は何だったのか、あのまま成立していたとするならば、どう説明するつもりだったかなどの疑問を生じさせます。
 もはや共謀罪の設立根拠はどこにもないのではないでしょうか…
 刑法の諸原則との関係でもさまざまな問題点が指摘されていますが、この点も含めて、徹底的な議論がなされるべきだろうと思います。
 もっとも、共謀共同正犯の存在が共謀罪不要の根拠とされている点は、再度検討を要します。確かに、日本では共謀共同正犯の理論は実務で確立しているかのようですが、近年のこの理論による処罰範囲拡大の動向を見ても、共謀罪と何ら遜色ない問題点をもっていると言うべきでしょう。共謀罪はいらない。なぜなら、共謀共同正犯があるからねというのでは、共謀共同正犯を緩やかに解することにつながりかねません。それでは、問題状況はほとんど変わらないことになると思うのは私だけでしょうか。

声かけで「脅迫」の近大助教授に無罪 奈良地裁


http://www.asahi.com/national/update/1005/OSK200610050026.html

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奈良市の路上ですれ違った母子に「誘拐するぞ」と声をかけて脅したとして、脅迫罪に問われた奈良市二名町、近畿大助教授入川松博被告(56)=休職中=の判決公判が5日、奈良地裁であった。松井修裁判官は「母親の供述の信用性に疑問を持たざるを得ない」などとして、無罪(求刑罰金20万円)を言い渡した。

 弁護側は、「子どもと離れて歩いていた母親に『手を離さない、目を離さない』と注意しただけだ」と、公判で一貫して反論し、無罪を主張していた。

 起訴状などによると、入川さんは05年7月1日午後1時50分ごろ、奈良市富雄北1丁目の歩道で、当時2歳の長男を連れて帰宅途中だった母親に対し、すれ違いざまに「誘拐するぞ」などと言って脅したとされた。

 判決は、まず「15メートルから18メートルの距離で被告がにやにやして近づいてきて、恐怖感を持った」などとする母親の証言について検討。

 その距離で入川さんの顔の表情まで判別できたか疑わしいことや、母親が当時かぶっていた入川さんの帽子を覚えていなかったことなどを挙げ、「母親の知覚の正確性、客観性に大きな疑問がある」とした。

 また、すれ違う前から恐怖心を持っていたのに入川さんの言葉を正確に覚えていたとは考えにくく、「(04年11月に現場近くで発生した)小1女児誘拐殺害事件が社会に大きな影響を与えたので、先入観で聞き間違えたとの疑いが生じる」と断じた。

 また、入川さんの自白の任意性については認めた上で、「軽微な事案のため自白をすれば、起訴を免れるのではないかとの動機から虚偽の供述をした可能性がある」とした。入川さんは取り調べ段階で容疑を認めたが、公判で否認に転じていた。

 入川さんは110番通報を受け、奈良西署に脅迫容疑で逮捕された。その後釈放され、奈良地検書類送検された。同地検が在宅起訴したのは今年2月20日で、事件から約8カ月後だった。慎重に補充捜査したうえで、立証は可能と判断して起訴に踏み切ったという。

 弁護側は、奈良県警が作成した入川さんの自白調書について、母親の供述に沿った自白を強いたとして、その信用性に疑問を投げかけていた。

 奈良地検の西浦久子次席検事は「意外な判決で驚いている。上級庁と協議の上、控訴については検討する」とのコメントを出した

 争点が、被告人の供述と被害者の供述のどちらを信用するかであり、供述一つで事実認定が大きく左右される典型的な事例の一つといえるでしょう。手続法的にみても、このような「被告人と被害者の供述のぶつかり合い」における適正な事実認定のあり方は再度検討される必要があると思います。 この点、本判決は、当時の客観的状況から両者の供述を分析的に検討したものであり、適切なものであったのではないでしょうか。
 また、この事例では、実体法的な面も問題になっているといえるでしょう。近年、強調されている犯罪傾向として幼児に対する犯罪がありますが、あまりにナーバスになりすぎ、人間的なコミュニケーションさえも制限されているように思われます。これでは、「通りすがりに声をかけること」も、相手の受け止め方次第では処罰されると言うことにもなりかねません。
 確かに、幼児を対象とした犯罪は、許されるべきものではなく、また予防される必要もありますが、あまりに「犯罪の始まりを食い止めろ」という標語が強調されることにより、一般かつ人間的な生活も制限されようとしていう点には注意を払う必要があると思います。]]